管理された音楽に疲れて

世界的なミュージシャンであり作曲家でもある坂本龍一さんが、新作を発表し、設置音楽展を開催しています。それに伴い、先日、朝日新聞にインタビュー記事が載っていました。

YMO時代、私たちはコンピューターを使い、人間がやるよりもはるかにリズムやピッチが正確な音楽を作っていた。今や機械で作る音楽があまりにも一般化した。そんな管理された音楽ばかり耳にすると、感覚的に疲れちゃって。一方で雅楽など日本の音楽は正確に合わさない美学がある。間、隙間があって、どこが中心かわからない。そんな音楽への欲求が高まっています。(朝日新聞2017年4月24日)

規律的で秩序だった音楽へのアンチテーゼといえるのでしょうか。YMO時代に自ら進歩させた「管理された音楽」を否定するように(本人は否定しているつもりはないかもしれないが)、「中心のわからない」 不規則で不安定な音楽への「欲求が高まって」いると言えるのは、勇気がいる、素敵なことだと思います。

そのインタビュー記事で、質問者はこう投げかけています。

音楽はノイズの中から音を選び取って秩序構築するイメージでは?(同)

「音楽はノイズの中から音を選びとって秩序構築する」は、印象深い言葉です。日々私たちはノイズに囲まれていますが、音律・音階・音調など一定の基準の下で音を選びとる作業は、音楽づくりや楽器づくりを目指すうえで、合目的かつ秩序ある作業なのでしょう。

坂本さんは、質問者の投げかけに対して、こう答えています。

ヨーロッパの人は何世紀もかけて楽器からノイズを除去してきた。(中略)ピアノは人間の考えに基づき精密に調律された近代的・工業的な楽器。(同)

楽器からノイズを除去した結果、美しく秩序ある構造物に生まれ変わったのでしょう。「音を選びとって」そこから「ノイズを除去(する)」という作業に、ルネサンス以降の文芸人たちの合理性と誇りを感じます。

だからこそなのか。

坂本さんの「でも僕はそこへの不快感が増しているんです」「完全管理され人間が数学的に作り上げたものに嫌悪感がある」という言葉が、いっそう印象的です。科学的管理法の批判的思想から人間関係論が生まれたことを思い浮かべるのは職業柄…。

合理性を求める西洋的思想と渾然一体を求める東洋的思想の二分論で片づけるほど簡単ではないでしょうが、ノイズも調律された音も好きな一人の音楽ファンとして、坂本さんの挑戦に期待と賞賛を送りたいと思います。

kaeru-sensei

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斎田真一(かえる先生)

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